性善説?性悪説?

今週参加した経営者勉強会で、大切にしている価値観・人生観について発表する機会があったのですが、これがなかなか面白かったので、書いてみたいと思います。

私を含め3人が発表者で、1人は性善説、1人は性悪説という真反対な価値観。ちなみに私は「損して得取れ」みたいな、ちょっとズレた事を言ってました。

そこで「性悪説って価値観はどうなの?」って話になったのですが、私は性悪説と言った方に親近感を覚えました。そういえば私も昔、性悪説って言葉をよく使っていたからです。(最近はあまり使わなくなったけど)

人を雇用すると、人の醜い面をよく目にします。生々しいので具体的なことはちょっと言えませんが、会社経営者が人間不信になるのはよくわかります。私も理想主義者なところがあるので、重度の人間不信にはなったし、その頃は性悪説って言葉をよく使って、なんとか平常心を保っていました。

ではなぜ性悪説という言葉をあまり使わなくなったかと言うと、、別に悪くもないし良くもないし、人間ってこういうもんだよね、というのを達観したからかもしれません。

ずっと一緒にいると小さなことが気になるのですよ。トイレのトイレットペーパーを替えてくれないとか、ゴミを落としても知らんぷりとか(笑)自分と行動が違うから、そのちょっとした違い、配慮の無さにイライラする。それが溜まり溜まって、その人の存在自体が嫌になる。

とはいえ、別に悪口や嘘を言いふらすとか、会社の備品を意図的に壊すというわけでもないし、世間で言う悪人ではありません。自分の期待通り行動してくれないってだけです。

期待するからイライラするし、性悪説という言葉で自分を慰めないといけなくなるわけですが、そもそも他人は自分の期待通りに動いてくれないのが当たり前、という見地に立てば、たいていのことは許容範囲内になるわけです。

普段からコミュニケーションを取って、信頼関係が築けていれば、相手が自分の期待通りに動いてくれる確率は上がりますし、そもそも組織や仕組みを通して人と接していれば、それほど相手の人間性に一喜一憂することもありません。

ま、自分の場合は、人に慣れたことと、人が悪いのではなく仕組みが悪いのだと、仕組みに原因を求めるようになったから、それほど人間性に頭を悩まされることが無くなり、性悪説って言葉を使わなくなったのかなと思いました。

性善説と言った方の気持ちはちょっとわかりません。仏のような方なのかな?私とは違ったタイプのようなので興味津々です!